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古いブログをTumblrにインポートする際に間違ってTwitterへの転送をオフにするのを忘れました.Twitterのみなさん,連続ツイートになってしまいすみませんでした.(とういツイートも1日のツイート数制限に引っかかって投稿できませんでした.)
At last, I could create my Google + account today. Since Google + requires Google Profile properly set up, and Google Apps doesn’t support Profile at this moment, I needed to recover my old, almost abandoned, Gmail account to activate the +.
The first impression on Google + was —- huh? The user interface seems far better than Facebook, but it won’t be a reason for me to use the second (no, maybe fourth or fifth) social networking service.
Until the Jasmine revolutions my first choice had been Twitter. I always remember how people on Twitter had warm hearts and greatly helped me and my friends. After the revolutions I didn’t twitter as often as I used to but still were watching my time line.
On 11 March we experienced the great earthquake. In this time Twitter helped me, again. Actually Twitter was the only active communicating tool on that day. Thus, though I stopped my machine-gun twittering, I’ve been loving Twitter.
My Facebook life has begun in Egypt to keep in touch with my Egyptian friends. Photo sharing was one of the killer application there. Increase of Japanese users made me more comfortable in Facebook.
As I manage several workshops every month, and also I am invited to other workshops, Facebook became a scheduler as well as a communication tool for me. In fact, I cannot schedule any of my events without Facebook nowadays.
And, here comes Google +. Is there any room for Google + left in me? This is really hard question. I don’t use Orkut because it is an inferior version of Facebook. I don’t use Buzz because it is an inferior version of Twitter.
I loved Google Wave because it was unique and useful. But what is a unique point of Google +?
As everybody knows, Google is smart. They must hide something. When they unveil it, that would be a time for me to start my Google + account. Until that moment, I think I’ll stick to Twitter and Facebook.
1905年(01)僕はアルベルト・アインシュタイン博士を尊敬する.彼に関する,奇跡の年1905年に関する連続ツイート.
1905年(02)1905年,アルベルト・アインシュタインは三つの論文を発表する.ブラウン運動を説明する論文,光量子説,そして,特殊相対論.後に1905年は奇跡の年として記憶される.
1905年(03)当時,次々と発見される電磁現象に対して,ジェームズ・マクスウェルが,現在マクスウェル方程式と呼ばれている,極めて美しい理論を組み上げていた.問題は,マクスウェル方程式がニュートン力学(正確にはガリレイ相対性と呼ぶ)と矛盾することだった.
1905年(04)マクスウェル方程式とニュートン力学(ガリレイ相対性)のどちらを修正するべきか,どちらとも理論としてあまりにも美しいので,修正の試みはどう見ても無様なものだった.
1905年(05)マクスウェル方程式からの理論的帰結のひとつに,光(波)の速度は絶対に変わらないということがある.例え,光の速度で走る列車に乗って光を観察しても,依然光は光速で去っていくのである.
1905年(06)これはニュートン力学(ガリレイ相対性)の考え方と相容れないものである.時速100kmのボールを時速100kmの自動車で追いかければ,ボールは静止して見えるはずなのである.ところが,光の波はそうはならない.
1905年(07)無数の研究者がこの問題に取り組んだ.特にローレンツはほぼ特殊相対論まで達していたが,最後の1ピースがはまるにはアインシュタインを待たねばならなかった.(後にローレンツは特殊相対論はアインシュタインの独創であると賞賛している.)
1905年(08)アインシュタインは,全く新しい視点から,マクスウェル方程式とニュートン力学を統合した.新しい視点のひとつを特殊相対性原理と言う.これはガリレイの考え方(動く船のマストからボールを落としてもボールはマストの真下に落ちる)を電磁現象に拡張したものだ.
1905年(09)特殊相対論のもう一つの新しい視点は,光速度不変の原理だ.これまで,マクスウェル方程式の理論的帰結として知られていた「結果」を,特殊相対論では「原理」に据えたのだ.
1905年(10)光速度不変の原理は,はっきり言って,滅茶苦茶である.当時はそのように受け取られたし,その意味が完璧に理解されている現代においてすら,光速度不変の原理を中心原理に据えたアインシュタインの意図はほぼ理解されていないように思う.
1905年(11)特殊相対論を構築するにあたって,光速度不変の原理以外の指導原理を導入することは可能であった.例えばマクスウェル方程式を中心に据えることは依然可能である.
1905年(12)アインシュタインは,同じ1905年に光量子説を発表している.光量子説は,光は「粒」だという立場に立っている.マクスウェル方程式が光の波動説に立脚していることを考えると,特殊相対論と光量子説は矛盾することになる.
1905年(13)彼は,1905年の時点で,光は波でも粒でもなく,量子(波と粒の両方の性質を備えたもの)であることを確信していたらしい[砂川重信 http://amzn.to/eNYC9O ].つまり,マクスウェル方程式はいずれ「破綻」する.しかし,光速度不変の原理は,生き残る.
1905年(14)アインシュタインの1905年の直感は,25年後の量子電磁気学の登場で正しさを証明される.僕が,アルベルト・アインシュタインを尊敬する理由はこれである.
1905年(15)アインシュタインは,その後一般相対論によって古典力学を完成させた.彼自身が1905年に扉を開いた量子力学に関しては,同僚科学者に批判的な手紙を書き続け,図らずも,量子力学創設の偉大な功労者にもなった[ニールス・ボーア].なんという男だろう.
古代の想像についての連続ツイート(1):古代を想像するのは楽しい。しかし、ごく限られた資料から古代のある様相を構築しようとする時、身悶えするようなもどかしさに苛まれる時がある。
(2)私が発掘しているピラミッド・タウンの「邸宅1」と名付けられた400メートル平米の住居では、その遺構に残されたものは僅かしかない。建物自体も場所によっては数センチ、数ミリしか残っていない。
(3)その中での推定は、人で例えるのであれば、足下が僅かに見える状態で、その人物の体格、容姿、年齢、性別、果てはその職種までも推定しようとする時に感じるもどかしさだ。
(4)学術的な報告書は「描写的な叙述」と言われる。私達はそこにささやかな想像を入れる。しかし、それですら本当に彼、彼女はこんな人だったんだろうか・・・と常に疑問がつきまとう。しかし、それが今度は引用され、引用され、引用されるうちに、本のなか事実となり、一人歩きを始める。
(5)なにか引用されるかは、その時代が決める。考古学者も「時代の子」だ。その圧倒的な力の奔流に流されながら、その流れの始まりと行き着く先を見据えようとしている。
(6)正に、以前、教えて頂いたゴーギャンの「われわれは何者なのか?われわれはどこから来たのか?われわれはどこへ行くのか?」だ。
@yukinegy
今日はスフィンクスの連続ツイート(1)ギザのスフィンクスの古代名は分からない。その周りにある幾つもの神殿、幾百もの墓や遺物はその巨石建造物の名前を語らない。スフィンクスという名前はギリシア神話に登場する女性の顔と乳房のある胸、そして鷲の翼を持つ怪物である。
(2)4500年前にギザ第2のピラミッドを建てさせたカフラー王が、その大建造プロジェクトの「最後の」モニュメントとして建造しようとしたのがスフィンクスだ。しかし、それは未完成に終わり、名のなきまま、1000年間放置された。
(3)ギザ台地の低地に作られたスフィンクスは、あたかも巨大な「くぼみ」の中に鎮座しているようである。そこは砂によって埋まっていく。未完成のスフィンクスは長きに渡り、砂によって埋められていった。
(4)スフィンクスが掘り出されたのは、建設から1000年後の新王国時代。ファラオ達は、戴冠の際ここを訪れ、礼拝堂や周壁などを建立し、ここで太陽神と偉大な祖先達に王であることを認められた。
(5)スフィンクスが作られた当時、ギザ台地は大工事現場だった。そこから砂が吹きぬける廃墟となり、それが新王国時代、スフィンクス信仰と共に聖地なって復活した。この時、スフィンクスは「地平線のホルス神」もしくは「シェセプ・アンク(生ける像)」と呼ばれた。
(6)地平線は来世への入り口であり、隼の神ホルス神は王権の象徴であるだけでなく、その飛翔から現世と来世を渡るものと考えられていた。そしてシェセプ・アンク(生ける像)とは、エジプトでは「彫像」そのもののことを言う。つまりスフィンクスは 英語で言う”The Stateu”だった。
(7)王達はここにこぞって建物を建てた。大王と言われるラメセス二世は足下に礼拝堂を、アメンヘテプ二世は北側に礼拝堂、アクエンアテンやツタンカーメンは、休息所を。そしてトトメス4世は砂からスフィンクスを守るべく巨大な周壁を建てさせた。 http://bit.ly/cXxWQH
(8)トトメス4世が建立した有名な「夢の碑文」と呼ばれるものがある。それは前足の間に建立されたもので、王子であるトトメスが砂に埋もれているスフィンクスの肩で眠る。夢の中でスフィンクスは「私を掘り出したらお前を王にしてやろう」と語りかける。
(9)今回の日乾し煉瓦の周壁の発見は、スフィンクスの歴史を再構築するうえで、とても重要なものだ。新王国時代のスフィンクスのその周りの聖域がどのようなものであったのかを復元できる。それは黄金のマスクとは異なる価値を持つ。
@yukinegy
英語ブログから転記.
Day 4, Giza Mission
I’m writing this article on flight MS962 from CAI to KIX by using OMMWRITER (former OmniWriter) beta 2. The A340/200 aircraft is now fliyng over Gobi desert smoothly.
Since this is the final day of the mission, I’ll summarize the mission in this article.
The members of the mission are Tommy, a civil engineer, Yuki, an Egyptologist, Ichi, a computer scientist, Mr. Nakatsuji, a CG artist, and M, a trump card.
The objectives of the mission are: (1) PPP (code name), which will be open on 22 September, and I cannot state the detail at this moment, (2) checking the current status of Djoser’s Step Pyramid in Saqqara, of which we have done laser scanning in 2008, (3) collecting any necessary information for publication on Monument of Queen Khentkawess that we are working on, (4) showing the Monuent to Prof. Yasumuro of Kansai University, who is doing computer work on it, (5) meeting with AERA (Ancient Egypt Research Association, led by Dr. Mark Lehner) members for preparing the next season, (6) meeting with members of Kharga Mission which I am involved, (7) seeing Tut Ankh Amen’s remains at Cairo museum for future discussion with GEM (Grand Egypt Museum), to which Japan finances an amount of money, (8) starting up a new collaborating project with Osaka Univeristy and Develo Solutions, code named Egypad, and (9) expressing our projects to important persons in Egypt, including Mr. Nakamura of JICA, Mr. Kishimori of Embassy of Japan.
We have all done the above things and had an extra bonus (smile!). Manami san of AERA greatly supported us.
On Day 4 we did a last run of PPP, and had a meeting with Ana, a member of AERA. We discussed our publication on Monument of Queen Khentkawess. The keypoint we completely agreed was, the publication must be meaningful both in Egyptology and engineering science.We must see what emerges from the collaboration of Egyptology and science, just the collaboration means nothing —- good enough is not enough.
Ichi and Yuki had been comfortable with their iPhones in Egypt thanks to SoftBank. They used email, GPS, and Twitter all the day during the stay. Follow @kanaya and @yukinegy on Twitter!
@KGN_works さんの主張は以下の点であろう.(間違っていたら訂正をして頂けるとありがたい.)
TwitterのまとめをGeek Tweetページに置くことにしました.
After I started twitter I did not post my article to this blog quite often. I’ll try posting to the blog too.
http://twitter.com/kanaya
All students at PiD lab. must follow me on Twitter.
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